国策を問う  沖縄と福島の40年 〔後篇〕 (5) 肝苦(ちむぐ)りさ闘いの原点 辺見庸ロング・インタビュー 沖縄タイムス

(5)肝苦(ちむぐ)りさ闘いの原点

 −日本には原発安全神話、米軍の抑止力神話、経済成長神話があります。こうした神話を生み出し、はぐくんだ土壌とはどこにあったのでしょうか。           

 辺見 神話を信じているほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑り、苦しみ、闘うという主体的営みの対極に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。神話は、われわれの思惟、行動を非論理的に縛り誘導する固定観念や集団的無意識、根拠のない規範にもなる。とりわけわれわれは強大なるものや先進テクノロジー=善という「近代神話」に長くとりつかれてきた。その近代神話の頂点にあるのが原発だった。原発神話はほころびが出てきたけれども、まだ破られていない。米国的政冶と米軍という神話も、朝鮮戦争ベトナム戦争イラク戦争があって破れかけたけれども、破られていないどころか、また新たな神話が出来つつある。2011年3月11日の翌日から沖縄の精鋭部隊を含む米軍が被災地へ行くことによりまた米国と米軍の神話がつくられつつある。
人間というのはまさに度し難いというしかない。それはここに原因がありますというかたちでは言えないけれども、ただ全体として近代は人間というものを「よき存在」として前提するところに特徴があったと思います。そのよき存在である人間は神と動物の中間にあって、常に進歩していくんだと。人間集団には全体として狂気はなく、テクノロジーとともに退行することなく前進すると信じこんできた。「米国は善」という神話と米国の自意識はそうやって形成されてきました。

 −「米軍神話」にどう向き合うべきでしょうか。 

 辺見 ひとつの試みとして、例えば普天間飛行場のようなものが米国内にあるか、と問うてみる必要もあると思います。そういう非人間的なことを君らは自国でやっているか、耐えられるかと。約3千人が亡くなった9・11の同時多発テロがありました。短絡的に比鮫はできないが、じゃああんた方、イラクとアフガンでどれだけ人を殺しているのかと問う必要がある。僕はソマリアやアフガンにも行って、この目で見てきたわけだけれど、ソマリアでは病院まで爆撃していた。理由を問うと、市民の格好をしたゲリラが逃げ込んだからという。アフガンでも民間人を多数殺傷する〝誤爆〟を日常茶飯事だった。戦争には実際の話、誤爆も〝正爆〟もありはしない。戦争マシーン化させられた兵士らの目には「人間」が見えなくなっている。米軍の夜間哨戒ヘリにも乗りましたが、動くものは反射的に撃ちますよ。朝鮮戦争ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク、アフガン侵攻…おびただしい殺戮のすべてに沖縄の米軍基地が関係している。「トモダチ作戦」で錯覚してはいけない。
 イラク戦争のときも、ほとんどの本土の新聞があの侵攻を肯定した。そのときに沖縄から兵士が行っているという痛苦な自覚がどれだけあったのか。何百万もの人が死んだ朝鮮戦争でも、米兵の死体を納める袋までつくって日本は儲けた。沖縄から向かった兵士も随分いる。戦後復興のために朝鮮半島の悲劇と沖縄を利用したのです。そういう肉体的自覚が本土の日本人にはあまりにもなさすぎる。全部ひとごと。で、平和憲法オーケー、安保もオーケーとくる。本当はすべてNIMBYなのです。9条の適用範囲は本土だけ、沖縄は適用外といった無意識が憲法擁護派にもある。もうそれでは通用しなくなったのです。

 −東村高江のヘリパッド移設問題では、国が住民を訴える「スラップ訴訟」(市民参加に対する戦略的訴訟)を起こしました。座り込みなどの反対運動を展開した住民2人に対し、通行妨害の禁止を求める「高江ヘリパッド訴訟」の3月の那覇地裁判決は、男性1人に違法な妨害行為があったとして通行妨害禁止を命じました。            

 辺見 弱者に対して政府などの優越者が恫喝や発言封じなどのために報復的な訴訟をす るケースはこれからも増えていくでしょう。現代日本で司法がどれほど公正に機能しているか疑問です。一方にあるのは基地問題や自衛隊の問題にせよ、住民側から異議申し立てをするという表現様式は60〜70年代までは、訴訟もありはしましたが、市民の側からの直接行動というかたちの意思表示の方がより多くありました。今はそれへの対抗手段として、国家権力という絶対的強者が住民という弱者を法的に訴え、脅し、見せしめをする。行動の細かな断片をとって違法と断じ、異議申し立ての重要性と関係なく逮捕、起訴、有罪とする。これを可能にしているのは、世論の弱さとマスメディアの無関心です。強者を救済し弱者を弾圧する。これはそもそも近代の法制上からも根本的におかしいところがある。
 「スラップ訴訟」だけでなく、僕が危ないと感じているのは憲法第95条です。自民党の新憲法草案では、前文と9条だけではなく、第95条を変えようとしている。現行憲法では「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」となっているが、自民党草案では削られている。狙われているのは地方、特に沖縄です。彼らは国策を優先したいのですから「地方主権」は口だけのまやかしです。
 心のどこかでそうなることを期待しているところもあるんだけれども、事態はどのみちもっと剥きだされてくる。無関心は許されなくなる。結局、他人事で済まない対決か闘争というのが、本土にも沖縄にも出てこざるを得ないのではないかと思っています。それはすでに欧州や米国、中東で始まっているわけだけれども。人間がもっとむき出されて非受益者層と受益者の落差、ひずみがひどくなって社会が闘争化していく現象は世界じゅうで
起きている。日本にもいつかくるのではないかと予感します。好むと好まざるとにかかわらず、人間がどこかで余儀なく行動に訴える時期というのがあるのではないか、そういう契機があるはずだと僕はどこか期待を込めて思っています。このまま眠っているわけはないだろうと。

 −今の若者の怒りには、底知れないものが潜んでいるように思います。       

 辺見 ありますね。怒りか屈折か、量りがたいものがある。はっきり敵を措定していたのが60〜70年代だとしたら、今ははっきりした「敵」という概念がない。ときどき自分を敵にしてしまって、自分を殺してしまうということがあるけれども。

 −「部分的な破滅では駄目だ」というのが辺見さんの見解ですね。   

 辺見 誤解を誘いやすい言い方なんだけれども、中途半端じゃ駄目だというのと同じなんです。新しいイデーというものが出てくるためには1回、完全に滅亡し崩壊しないと駄目だという思いがありますね。文学的直観にすぎないと言われればそうなんだけれども、徹底的な敗北の中からじゃないと新しいものは生まれてこないだろうなというのはある。中途半端なところで「復興」だとか「絆」だとか言っていたって、何も新しいものは出てきやしない。外形的ないろんな破滅、部分的な滅亡というのは今あるのだけれど、本当は一番大きいのは人間の内面の決壊、思想の破滅状況じゃないかと思います。
 僕は戦後と一緒に生きてきた人間だけれども、生きてきた思想的、精神的枠組みというのは崩れたんだと思う。外形的な物の破壊ということよりも、その方が大きいんじゃないかな。近代が終わったという場合、近代というものの発想が終わったんだと。僕は詩も書くが、詩的テーマとして現代はむしろ古代化しつつあると感じたりする。今を部分的に切り取ると、原始に戻っているようなところがある。そういう観点を自分の感性をフル動員して深めないと、「現在」というのは描き得ないと思っています。
 20代で初めて沖縄に行って教えてもらった最も印象深い言葉は「肝苦(ちむぐ)りさ」でした。いまでもあるでしょう? これ、本土にはない。言葉より前にその感覚が薄い。「断腸の思い」ではただの挨拶みたいで嘘臭い。ギリシャ語には「スプランクニゾマイ(splanknizomai)」という言葉があるらしいですね。不思議ですね。「スプランクナ」(はらわた)を動詞にしたもので、「人の苦難を見たときに、こちらのはらわたも痛む、かき乱れる」という身体感覚です。「肝苦りさ」――闘いの原点はここにしかない。


取材後記 「記者は独り」響く至言
約3時間にわたるインタビューの結びとして、辺見さんに「沖縄の記者たちにひと言」とお願いし、こんな言葉をいただいた。「常に例外的存在になれ、それが一番の贅沢なんじゃないか、記者という職能の一番の贅沢は、お前は一人しかいないってことだと思う。それに記者は独りだよ、徹底的に。みんなとつるんで、上とも横ともみんなと仲良くやろうとしても無理。考え方も独りで徹底すること。集団に隠れたらもう終わりだよ。集団に隠れないこと」。私の本棚には、辺見さんの著作がたくさん並ぶ。その中で最も古い1冊を持参し、サインを請うた。手元には「独考独航|の文字が残った。(特別報道チーム・渡辺豪)