国策を問う  沖縄と福島の40年 〔後篇〕 (2) 痛みますます希薄に 辺見庸ロング・インタビュー 沖縄タイムス

(2)痛みますます希薄に

 −多くの人が亡くなった土地から生じる「におい」のようなものは、戦場と被災地で共通性があると考えますか。      

 辺見 謎ですね。戦場と被災地では、厳密には同じじゃないけれども、「死のにおい」はある。人がモノ化され理不尽に破砕された場所独特の空気がある。ただ、沖縄と違うのは、今回の震災も阪神大震災もそうだったけれども、復興という意味じゃなくて、悲惨なリアリティーをコーティングしていく速度っていうのは驚くほど速いですよ。それは単に外形的なことだけじゃなくて、記憶の薄め方も速い。メディアがそれを助けるからね。あの破滅的な状況の中で何か新しいものが立ち上がってくるのじゃなくて、前にあったものをまたすぐペイントで塗りたくって再現するみたいな速度です。それは沖縄の土地がずっと歴史的に染み付かせているようなものとは異質なものじゃないかな。震災で2万人が死んだり、行方不明になったりしているわけだけれども、僕はどうもその辺の痛みというのか記憶があきれるほど薄いと思っています。
 石巻に行けば、夜、見ようによっては異界、あの世みたいな感じってありますよ。でもそれは沖縄とはまったく違ったものだと思う。沖縄に彫られた傷の深さは消そうとしても消えないルサンチマン(怨恨)につながると思うんだけれども、東北には根深いルサンチマンはない。原発をのぞけば、支配へのルサンチマンは薄い。確かに、個別には東北差別というのはあるけれども、それが全部じゃない。そういう意味では、サクリファイスの構造というものを、沖縄と東北を同一次元で定義するのはどうだろうかなっていう疑問を僕はもっています。それと違う文脈で、東北人も沖縄人も「素朴」だとか「実直」とかよく言われる。左翼や市民運動の人もそう言ったりする。あれね、僕は視線が浅いと思うな。差別的同情というのかな。
 沖縄にはルサンチマンは薄くなっているけどまだあるし、もっとあっていいと思う。なぜかというと、それを消去したら、琉球処分という問題の根深さが見えてこないからです。それから、米国は琉球諸島を日本から切り離し、「防共の砦」として軍事基地の建設を進めた。1951(昭和26)年サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は独立を回復したけれども、沖縄は引き続き米国統治下におかれた。そのときの本土の思想というのはどうだったのかということを、今改めて点検しないといけません。結局、沖縄を人間扱いせずに投げ捨てるというか、米側に提供したわけだから。僕が言うサクリファイスというのはそういう意味でもあります。どうぞと、いわば人身御供というか、供物として沖縄を差し出した。琉球諸島の将来に関する日本国天皇の見解、1947年の寺崎メモ(★)。これを現時点でもう一度、昭和史と沖縄の位置付けを見る上でしっかり光をあてる必要がある。長期間にわたる米軍の沖縄占領をエンドースするというか、天皇として認めるというのがある。沖縄の歴史って密約だらけです。なぜこうも密約がまかり通ってきたのか。昭和天皇自身の沖縄観にも「捨て石」という思考があったのではないか。

★寺崎メモ…マッカーサーは1947年6月末、東京での米国人記者との懇談の際、沖縄を米軍が支配し、空軍の要塞化すれば、非武装国家日本が軍事的真空地帯になることはない、との考えを述べた。この発言を受け、天皇は同年9月、側近の寺崎英成を通じてGHQに「米国が、日本に主権を残し租借する形式で、25年ないし50年、あるいはそれ以上、沖縄を支配することは、米国の利益になるのみならず日本の利益にもなる」とメッセージを伝えた。