体得と信

「体得と信」
釈尊の仏教は覚りの宗教である。覚りとは一切の苦を無くしてしまう事である。それを苦からの脱出、解脱とも言う。これはその様な人間状態になる、体験、体得の事である。しかもそれは自分自身でその体験を自覚出来るものである。それは死んでから先の事ではない。釈尊は人間としてその様な体験をされ実証された。覚りを別に証と言うのは、自分で分かる、自ら証明するという意味合いだ。
 釈尊が仏教の開祖、師匠とされるのは、人間として自ら体験出来た事をもって導かれるからである。ブッダとは自ら覚りに到達し、人々を教え導く方という意味である。ところが時代が下がると、ただ単に悟ることを意味するようになり、「死んだらモウ仏けさんだから」と言った日常語になってしまって、正導者、救済者の意味がまるで脱落してしまう。一方では人間を超越した神秘存在に祭り上げられ、ご利益願いの対象となり、はては観光対象の仏像文化。
 日本化された仏教では、即身成仏、未来成仏、来世成仏と様々に説かれるが、生きているお坊さんで、「私は成仏した」と明言なさったのを聞いた事も読んだ事もない。何々の管長とかゲイカとか言われる方々が、しばしば教育テレビに登場する。そして「一生修行である」と言われる。これが謙そんなのか事実なのかハッキリしない。一般者としては仏教学習の結果こうなったというお手本を拝見したいのだが、これを見ることはメッタに無い。お手本が無ければ後続者が出てこないのは当然である。仏教学問の水準は世界一だそうであるが、仏教到達は一体どうなっているのかと首をかしげる。
 宗教が学問化、哲学化されると宗教としての体得自証はいよいよ薄れてしまう。これは洋の東西を問わずだ。これが南北となると又大いに違ってくる。仏教もこの辺で、本来の体得、自証性を取りもどさないと、経済亡者ばかりの世界中からの嫌われ者になってしまう。そこでまず、釈尊の時代、哲学抽象化、観念化されない仏教、そのオリジナルを求める旅に出ねばならない。迷路に来たら入り口に立ちもどってみる事が常識である。そしてそれが可能になった。
 仏教とはブッダの教え。ブッダとは分かり、体験し、正導なされる方である。教えとは分かる様にする事である。分からないと人間は不安定になる。不安定は苦しいから、分からないが信ずるという方式をとって人は安定しようとする。それは分かる事の放棄である。
さて難解にゆき逢えば、その先の分かる所を求める様になっているのが人間構造である。釈尊は分からない事を苦とし、それをハッキリさせた。これが悟るという事である。何が分からなかったのか。
 それは人間がどの様な存在であるのか、という一点である。それまでは、人間の魂が神の魂と分離しているから苦しむ、この二つが一体になれば苦しみが無くなる、解脱すると教えられていた。この教えだと死んで天国(仏教では天上)でそれを体験実証する、とい
う事になるから結局はハッキリ体験出来ないという事になる。

「自己決定」
安定自立とはどの様なものであろうか
不安隷属の苦悩から脱出する事だ
それらが得られれば最大の利益幸福となる
 外部環境的には不安隷属であろうと
 内部人格的には安定自立があり得る
 この様な大道はまさに万人のものである
人間は理性感情行動の三面で成り立つが
この三面において自己決定出来るのは
人類の長い歴史の頂点というべきか

釈尊は自らハッキリした事を弟子に教えた。教えるとは単に知的に分かる様にするだけでなく、その体得方法を実習させ、明確に悟ったと自ら自証出来るまで正導する事である。
 その直弟子ピンドーラは、その悟ったという体験を自覚し、これを師匠の釈尊に申上げる。これは弟子としての義務でもあり、礼儀でもあり、感謝表現でもある。それによって師匠たる釈尊は何よりも喜ばれるに違いない。日本の学校の様に何とか出席日数を合わせ、追加試験してまで卒業免状を与えるといったのとまるで違う。何しろここでは月謝もなく年数制もない。いわば無料の完全な生涯学習である。ライセンス教育と体得教育の違いが実にハッキリしている。
 体得していないのに単なるライセンスを与えてもしょうがない。ここでは一生修業でまだまだです、といったへんな謙そんなどは無い。そんなアイマイは仏教とほど遠いものである。覚りとは何か。
 人間として生まれてきた意味、その人間完了をした。従って二度と迷い生をくりかえす事はない。釈尊はこれを認められた。そしてその他の弟子達にもそれを紹介された。何と輝かしい事であろう。
 さてそれからどうするか。それは宗教者として一生宗教活動を続けるという己を超えた生き方をするのである。こうした無報酬、施し導くという聖なる道に突き進んでゆくのである。
釈尊の仏教における解脱(ニバーナの体験)は出家入門して一二年の内には得られているようである。それは出家入門するという決意行動によっていわば学習の半分が出来ていたからであろう。
 日本のように折角お寺の息子に生まれたのに、学校の先生にでもなって、停年退職後お寺の業務をやるといった、覚り救われと関係がほとんど無い心情では、一生かかっても何も得られないはずだ。
 今日、何故宗教活動がなされないのか。それは宗教を求める人が非常に少ないからである。何故そうなったのか。それは徹底の境地は説かれるが、それを体験した宗教証明者がいないからである。人は話では心動かされはしない。事実が無ければならない。
 かりにお手本となる解脱者が居ても、自分もその様になりたいとは、ほとんどの人が思わない。ではそういう人はどうなるか。
もしすぐれた宗教者を見れば人は必ず尊敬を持つ様になり、その人を支持供養する様になる。その宗教者の宗教活動を支援する事で、よき信者となり、自らの存在価値を体験出来る様になる。
 そうした信者は覚りを直接求めないにしても、そうした正導者と真理を信じることによって、心が安定し、浄福をもって生きる事が出来る。釈尊はこれらの人々にはその様な信者の在り方を信者には説かれ、決して直ちに求めもしない覚りの話などをやたらにはなさらなかったのである。こうして宗教者と信者との二層構造を明らかにする事によって美わしい仏教活動が展開されていた。これが仏教のオリジナルである。祭式葬式専門屋などではなかった。生きている人間の真の人間教育を実践していったのである。平易さをぬいた真髄などはない。原始仏教によってそれらの事が教えられる。

三宝 第151号 田辺聖恵