出家清浄

 「出家清浄」                      
 釈尊の宗教活動は一日としてお休みということがない。朝の静思、午前の托鉢、午後の静思、夕方の法話、夜の静思、就寝とこのくり返えしである。その間に旅、移動をなされる。
 特別の大会とか、何かのお祭り行事といったこともない。人々を正導するための静思(サマーディ・ジェーナ)をなさり、正導のための法話をなされる。宗教活動(仕事)と生活が一体であって、宗教者の理想の在り方を釈尊は生きられた。
 このような宗教活動が十年二十年と続けられれば、多くの帰依者信者が出来るのは当然と言えよう。アナータピンディカ長者は祇園精舎を教団に施進した。多くの信者は食物の供養をさし上げ、善施による浄福を得て満足した。時には法話を聞きにいってその心を深め、真理の理解に近づくこともあった。
 供養が水のごとく教団にそそがれた、とこの経にあるが、金ピカの仏像を作ったり、お祭り資金を集めたりなどがあるのではないから、さほど驚くようなことではなかったに違いない。何しろ金銭を受け取る事は教団の規律で禁じられていたし、釈尊やその弟子たちも一日に一食という規律を守ったのだから、食物もそんなに沢山は必要とされなかった。
 このような状況にあっても、異教徒の者にとってはねたましい事に違いない。そこで教団をやっつけるにはどうすべきか、それには親玉をやっつけるのが早道。親玉をやっつけるのには人身攻撃が一番手っ取り早くしかも致命的だ。誰でも考えそうな事で、今日の人情、考えと全く同じと言えよう。
 選挙のたびに人身攻撃が行われるのは洋の東西を問わずであり、宗教教団の長が云々されるのもこの身辺の事である。つまり色と金が問題という事だ。これが何故問題になるのか。
 信者というものは、この二面において浄らかである事を期待する。それは自分がなし難いことであり、その様にある事が人間の理想に近いことを知っているからだ。どの様に立派な法話を聞いても、その宗教者がかくし女を持っていたり、ゼニ計算を喜んでいるようでは素早く見ぬくものである。それはみずからが、そうした世界にまみれていれば、そうした面への臭覚は鋭敏になるものだ。
 しかし信者(在家者)の限界はそこまでという気がしないでもない。何故出家までして法(真理)を求めるのか、ここに考えつく事はまことに難しい。釈尊の当時、結婚して間もない青年たちが何故その妻子から離れて法を求めたのか。ここでよく日本では妻子を捨ててと云う。当時は妻子が食べられるようにして行われた事に注目せねばならない。日本のように、死刑になる所を出家者になれば、世俗政治の世界から脱落する事だから許されるといったのは、出家の法ではなく、世俗政治の処罰法なのである。だからヒッソリと暮らさなければならなかった。これを宗教者と云えるであろうか。
 今日は在家者(信者と云えるかどうか)がお寺や坊さんの在り方を批判する事が多い。では真の宗教者を見出だそうと努力するであろうか。仏教書を読んで知的満足をしていても、それは思想であって、宗教でも信仰でもない。ましてやみずから宗教の道に実践的に入ろうとするであろうか。このような自己批判の上で、仏教は考え求められるのでなければなるまい。本来宗教の世界に外野席などというものはないのである。

        『出家実践』
     相関縁起の真理をひたすら求める
     真理を実践してひたすら真実に生きる
     それは愛憎を昇華させた至上の境地だ
      在家者の浄福は尊重されるべきだが
      その相対生活は悟りにおいて限界がある
      それは愛憎の尾ヒレがついて回るからだ
     出家者の聖福はなかなか得難いものだが
     その絶対生活は悟り体験を可能にする
     それは人間の究極をめざすと言うべきだ
 
 日本では仏教の覚りを無執着になる事ととらえられている面が多い。色と金から超越して淡々となることらしい。これも在家的発想という事になろう。所有していてもとらわれなければいいのだと云う。これは都合のいい話だがご都合主義である。
   所有していてもそれにとらわれない
   とらわれなくなれば所有しなくなる
 この二つを並べてみれば、己がどの辺に存在しているかが分かるものだ。どちらでなければならないという事ではない。仏教は己が何を求めるかという、いわば選択の宗教である。そこには宗教権力による圧力などはない。内面の変革とそこから出てくる宗教実践というのであれば、自由意志による選択を土台にせねば全く始まらない。そういう点て、全く現代的と云えよう。家の信仰だからとか、都合がいいからとかいったものではない。
 釈尊やその弟子たちは、何故出家して真理法を求めたのであろうか。単に愛欲生活から逃れるためのものではない。真理と一体となり、人間存在として可能な限りの、つまり人間理想の実現を求めたのである。無執着が目的ではなく、無執着を足がかりにして、自己の上に真理法の実現をはかったのである。無執着になって何をしていいか分からないといった事ではなく、真理の実践において全力投球をする事である。執着は欲望心情であるが、これを超えるには人間がいかような存在であるのか、そしてその存在の本質から離れることなく、どのように真理実践をするか、これは知的了解であり、知的選択決定である。そこから改めて欲望心情の処理克服も生じてくる。この様な仏教理解は、人間を性欲と食欲、さらに知的了解欲求という三点において、つまり人間の基本において、分析把握し、そこから人間本質としての再統合がなされねばならない。
 従来の心理学というか人間学が、性と食においてのみ人間理解をしてきた事は、その学の未熟さを示しているに過ぎない。人間の理知性がこの数千年で突然変異のように現われてきたと考えるのは全くおかしい。原初的生命体にも知的働きは濃厚である。
 生命知の本質に立って釈尊は人間の在り方を究明された。生命知は知るは楽しといった知識知ではない。いかに生きるかを求めて止まないものである。人間は生きつぎ生きつぎしてそれを求め続けてきた。二千五百年前、釈尊はまさにゴールインした。真理を一切は縁起性のものであると悟られた。そこからその覚りの実践実現者として四十五年の宗教活動を生きられた。まさに理想が人間において実現したのである。
 身辺の清浄は学習者の基本である。真の目的は真理法の体得実現である。身辺清浄は一つの功徳でもある。私自身もこの十数年、独居による恩恵を得てきた。まことに有難い事である。宗教者という実感がしないでもないこの頃である。多謝、深謝の外ない。

三宝 第149号 田辺聖恵