仏教は楽しき学習なり

  「仏教は楽しき学習なり」
 ブッタ釈尊は師にして手本
 釈尊は宗教者である。人間としての理想を生きぬかれた方である。ブッダとは真理を悟り、自ら実践した方である。如来とは真理―如から来た方、つまり真理を体得しそれによって実生活をする人である。この人間としての理想に生きぬいた方、事実としての存在という面をぬいてしまっては、釈尊による仏教ではない。
 今日、仏教国と云われながら、大半が寺院ばなれしているのは何故か。それは葬式仏教になっているからだと大半の人が考える。僧職者自体もそう考え、これではいけないのだがと反省し、かつ仕方が無いとあきらめる。ではなぜ葬式や読経儀礼またはご利益祈祷が専門の様になってしまったのか。その原理的反省や追求がなされていない。それは後期仏典を主にし、原始仏典を視野の中に入れて無かったからである。後期仏典には如来としての絶対性のみが強調され、ブッダ、仏けさまとしての生活面が全然表現されていない。
 絶対としての抽象性が体得出来るのはよほどの宗教エリートしかあり得ない。何故ならばその抽象性が具体として体験されねば単なる理念、哲学で終って、宗教にならないからである。
 仏教が一般に通用するという事は、価値をいくらかでも志向する具体生活の指導原理が手本として、事実として示される事である。つまり仏け様が、生き方の最高のお手本でなければならない。その事実としてのお手本によって、弟子や信者の生き方が出てくる。ところが後期仏典にはこの事実手本がないから、中国式や日本式を作り出さねばならない。それはおシャカ様と同等の能力を持つ様な宗教的天才でなければ到底出来ない話だ。
 そのために、曰本では親らん聖人、道元禅師、日蓮上人その他の宗教天才、いわゆる祖師信仰になっている。これらの方々は事実として生活されたから、お手本にもなり、宗教的な迫力もある。しかし肝腎な仏さまが抽象的存在であるために、まことに迫力が無い。
 この事が分るためには新興教団を見るとよい。その教祖さんが、生き仏け生き神様になっている。ご利益願いですらそうなのだから、より価値的な生き方を求める仏教者にとっては、その信仰対象となる仏け様が事実としてどの様に生活行動をなされたか−が重要。
 教え導く師としての仏け様は、日本では欠落していた。信ずる対象としての仏け様であれば。それでもよいのかも知れない。
 釈尊は「白き布」を踏もうとはなさらなかった。それはゼイタクをさけよ−という事である。この一点を取りにがした寺院は、信仰を盛り上げようと華美を競ってきた。見事に今、観光資源になった。
 事実としての釈尊行動と、絶対である如来を重ね合わせる事、そこから出てくる質素な実生活、それが仏教者の生き方であるという基本が確立しなければ、単なる信仰企業となる外はない。
 楽しき道によって正しき楽は得られる
 日本民族はマジメ人間と云われる。ここまでは良いが、これがやがてテンション民族になる。過緊張型になるという事。宗教、信仰においても悲壮痛烈な求め方をする。それが己の性格でない人は、花鳥風月に逃げる。釈尊のような正しき道「正しき楽」というものになりにくい。自分の性格や好みに合わせて求めるのだから、それでいいではないか−と云うのであれば、好み、趣味の様なものだから、宗教として論じ考える事では無くなる。
 釈尊の仏教は何故「正しき楽」なのであろうか。難行苦行でもなく、心情的に深刻ぶるのでもなく、教導、正導された「人間の真理」を静かに学習し、体得してゆく事である。集団行動などによるアオリ立てなどでもない。人間の真理を学習するのだから、己が分ってくる。分る事は喜びであり、楽である。納得を深めながら生活や己の仕事をしてゆくのだから、こんなに喜びであり、楽である事は無い。ところが日本式はこの納得性が少ないから、どうも歯を喰いしばって、といったものが、つまり熱心なのがよき信仰とされている様だ。釈尊の仏教はそのノボセをとった静かな喜びとなるものだ。
 何故、痛烈型の信仰になり易いのか。それはやはりその信仰によって救われたいという期待があるからであろう。強信はその方向を少しあやまれば、とんでもない自己流になる事は、今日の新興教団を見ればよく分る事である。己自身がよりよく解明される事によって不思議な力などを要しない「正楽道」を得たいものである。
 「学習五つの性質」−信・健・正直・努力・知恵
 釈尊の仏教とは「人間の真理』を学習するものである。そのためには理性と感情と身体すべてをその目的のために活用せねばならない。信とはその目的へのま心であり信頼でもある。健康でなければすべてをゆがめて受取り易い。正直でなければ自己流になる。苦行にならぬ身体化、当然、観念論でない、生活と実修、継続や工夫、自発性などが努力の内容になる。一分を得れば一分の知恵かくて充全の知恵が得られ、目的到達となる。一分の知恵が無い事には、すべてが成立しない。一分の知恵なら万人にある。従って釈尊の仏教は、万人のものたり得るし、その為の縁作りが必要である。     
 朝聞夕覚の可能性
 はてしない難行苦行などとおよそ関係がない事が、このお経(三宝法典 第二部 第五一項 王子の三宝帰依)に明らかにされている。何故そんなに短時日で目的にゆきつく事が可能なのであろうか。それは右の「学習五つの性質」を使って、了解し−納得をつみ重ねる方式だからである。一分の納得を得るのはさほど時間がかかるものではない。一分の納得を得れば、それは充分にあい通ずるものであるから、すでに覚り(救われ)と同質内にいる。
 この一分を得れば安心である。あとはこの「安心」をより深めれば良い。人によって朝聞夕覚があった事実を知るべきである。
 賛歎から帰依へ
 仏教は素晴らしい。という人は多くなり出した。ところが帰依という所までゆくのは、またまたひとしきりのへめぐりが要る。己の気位が邪魔をするからか。それと母の願いがこめられているかどうか−という素質的伝承の有無。木に竹はつなげない。まず女性の中に価値的母性が啓蒙されねばならない。まさに日本の道は違い!

三宝 第121号 1983年11月8日刊 田辺聖恵