真理を実践正導されるブッダ

  「真理を実践正導されるブッダ」
  食事する仏け様
 汗を流して働き、ようやく食物を得る勤勉な農耕者から見れば、何の労働もしない出家修業者が、好ましい存在とは思えない。一体どのような修業をするのか、一体何を目的にやっているのか。それらが分らねば、ただ食を乞いに来る、単なる物貰いとしか思えない。
 旅から旅へと縁あるままに移動してゆかれる釈尊の噂が、そんなに広がっているわけもないから、この方が仏け様だとは誰も気付かない。大きな建造物でも作り、そこに住んで、神秘な霊能力でも使えば、たちまち有名になり、礼拝者は跡を断たない、といった具合になるであろうが、そうした事の虚業性に行きつかれたのが、まことのブッダ釈尊なのである。
 このバラモン信者が、釈尊の価値を認めようとしなかった心理は、もう一つ考えられる。従来、信仰と云えば、人間の運命を左右する様な偉大な力を持つとされる神々を信仰する事、なのである。人間を拝んだり、尊敬したりする事ではない。現在の日本人でも、その様な力を持つものを神と思い、仏けもそれに全く同じものと考え〜それを信仰したり、そのようなものが存在するわけがない、それは迷信だと、簡単に片づけてしまったりする。
 『三宝聖典』として月々、善友各位にご紹介している、この経典の原型はアーガマ経(南伝の経ーインド南部に伝えられた)である。ここに当場する仏け様は釈尊だけである。その仏け様とは人間を超越した、神秘存在ではない。真理を自ら悟る事によって人間を成就された、理想者と云うべきお方なのである。つまり人間としての可能性の究極まで行かれた方である。
 人間としての究極を自己実現(全現)した釈尊は、覚者(ブツダ)は超人格ではない。理想者ではあるが人間である。ここが有難いと礼拝できるためには、よほどの仏教力が必要である。
 時おり、諸仏は云々をなされる。過去にも自分と同じ様に悟った人・仏けが居られると。この諸仏もまた托鉢・乞食を伝統とされたと云われる。食事をするという事は人間であるという事を意味する。
 日本に伝えられた仏教は北伝のものであるから、ブッダを人間を超越した存在として表現してある。それは釈尊が悟られた内容、それは縁起の真理(後に空あるいは本願と表現)であるが−その真理は人間を超越している(厳密には人間も内含する)、その真理性を
ブッダと表現するようになったのである。簡単に云うと真理法とその働きを仏け様と称するようになったのである。
 ところがこのような説明はほとんどなされる事がないから、信者大衆は、自分の期待をこめて、神秘力をもった仏け様として信じる。そのような誤解を生みやすいままにしてきた事が、今日の仏教離れとなってきているのではなかろうか。
 人間としてのブッダ釈尊が正しく評価され、信仰され、その教導に多くの大衆が従うまでにはまだ百年はかかりそうである。貧病争の三悪を卒業し、いわば福祉がゆきわたって、生きている事の虚しさが感じられる様になった時、釈尊仏教はその時こそ、他のいかな
る信仰でも満たし得ないものを提供する。『三宝聖典』はその露払いのようなものと云えよう。その刊行を急がねばならない。
 真理の実践
 仏け様、ブッダとは−真理を自己全現してはてしない方である。真理を悟る事によって一切の疑問を解決して自立し、人々がその様になる様にと、一日として休む事なく、正導を続けられる方である。真理を悟って自己を解決(大智)、正導救済して止まない(大慈悲)
この大智と大慈悲のそろった方がブッダである。釈尊はそれを四十五年間、休むことなく実行なされた。それは縁起の真理(互恵真理)をそのままに全現されたのである。
 それらの大業は、それ自体を目的とされたので、何かの利得を考慮されていたのではない。まことに淡々たるものである。
慈悲という言葉は、あわれみの情のようになっているが、本来は利害を伴わない友情の事である。勿論単なる親しみでもない。相手の真実の実現に役立ってゆきたいという様な善意の友情である。
 釈尊はそのような慈悲友愛の心を実行として現わされた。自己を解決し、自己に関して生も死も欲しない様になられた釈尊としては、自己のために何かをするという事がない。家族を持って居られないから、家族から足を引っ張られるという事もない。弟子の集団サンガを持って居られたが、それぞれ弟子も野宿と旅が主であるから、特別面倒を見られるわけでもない。では何か残るか。
 弟子と信者をそれぞれに応じて正導する−それあるのみ。
 そもそも仏教の真理とは何か?縁起正法である。これは一切のものは変化する、という事。では何故変化するのか。それは一切のものが単独では存在せず、相互に関係し合って存在しているから。
 人間・自然を含め、一切は関わり合って変化しながら、現象的に存在する。関わりがプラスとしてあるから人間が存在し、私が居る。この相関の理は互恵真理である。
 仏教の真理を悟るという事は、一切が変化するのだから、自分だけの例外を望まないという事。ではどのように自分も変化すべきか?一切が互恵の関係理としてあるのだから、自分も他に互恵してゆくーその様に自己を変え、真理を実践してゆく。ただそれだけ。
 仏教者とは正導され、救済されー自分も正導し、救済する、もしくは、そのお手伝いをする者の事である。それは真理が全現され、活躍する場である。つまり、釈尊の真似をたとえ百万分の一でもしたい−これが信者、少しでも実行すれば弟子。これが一切、自発心
において行なわれる。まさに成熟の宗教ではある。
 信者の供養
 釈尊は友愛心をもって正導し、自ら互恵真理を実行なされる。真理、法の話(人間成就の教と実行法)をなされるが、勿論一食の為ではない。出家宗教者が托鉢をして食を得るのは、在家信者が食をさし上げるという善行(施の功徳)をさせて貰う−その機会を与え、さらに自分が悟達してそれを信者に還元する事である。ここに出家在家の互恵実現がある。出家者は自給自足してはならない。
 この頃、駐車場化してお寺の自給体制を進ませている様だが、仏教真理に反するから、一種の自滅行為とみるべきか。信者側も経費負担が少なくなって喜ぶとしたら、施しの善行が少なくなるのだから、これも自滅への一里塚という事になろうか。
 信者とはなかなか専心に修業に打ちこめない者である。従ってよき信者はしばしば施し、それを喜びとし、修業の替わりとする。その為にはこの施を受ける仏教者が真実に仏教を実践修業していなければならないのは当然である。信者はお経を読んで貰ったから、お布施としてお金を包むが、これは労働報酬となるので、間違いである。仏教者はお金を目的にせず法を説いて施し、信者は感謝と尊敬の心をもって財施をする〜これが互恵である。
 「お経、法話の切り売りをすれば芸人に等しい」
 釈尊は身をもって仏教者の在り方を実践されている。そこから信者の尊敬も生じてくる。善い話を聞いた(自分の欲得が満たされた)だから供養する、というのでは心に汚れがある。もっと純粋な尊敬と感謝の心をもって供養、布施善行をする。ここに信者の道、将来自己を成熟させてゆくスタートがある。この短いお経(三宝法典 第二部 第四四項 たがやしバラモン)に、事実を通した仏教の真髄がある、と云ってよいのではなかろうか。

三宝 第119号 1983年9月8日刊 田辺聖恵